紫陽花の時期に

願わくば 花のしたにて 春しなん その如月の 望月のころ
*西行法師*
(従姉妹のSちゃんが この歌を思い出してくれました。)

西行法師が 旧暦2月(今の4月)桜の時期にお釈迦様と同じ頃旅立ちたいとの願いを込めて詠まれた歌。その願い通り、お釈迦様に一日遅れて亡くなりました。

あるお寺の住職だった叔父も又、大好きだった紫陽花の美しくしっとりと咲く時期に、旅立ちました。画像はお寺の境内の紫陽花です。

お通夜にはとても間に合わないと思っていましたが 全ての行路がまるで準備されていたかのように順調で お通夜の始まる5分前に到着。伊丹から乗ったタクシーの運転手さんも この時間にこんなにすいているなんて考えられないと首をかしげておられました。まるで導かれているようでした。

境内に入って 雨露を纏い、しっとりとした紫陽花に はっとしました。紫陽花が好きで紫陽という名前が叔父の書道の雅号でもあり 境内にも紫陽堂という建物があります。
お寺に生まれながらも その道を避けてビジネスの世界に。東大法学部卒、その読書量は半端ではなく、蔵書の管理をするために司書の方が来て下さっていたと聞いています。
住職であった祖父亡き後(叔父の父)、35歳で仏門に入りビジネス界との兼務。サラリーマンとして第一線を退いてからは 地域社会でのお寺のあり方を大切にし、勉強会、コミュニケーションの場の提供など その地に根ざし、人々の心に届く活動をされていました。

仏教界でも素晴らしい活躍をされたと聞いていますし 数々の著書も好評です。

境内に大きなが2本あります。樹齢どれくらいでしょうか。その楠の葉が黄色くなって、これを枯らすわけにはいかないと 周りの人に相談したところ 岡山県まで出向き専門家に指示を仰いで下さった人がいたそうです

その甲斐あって今は青々と茂り あの楠のあるところがお寺と遠目からもはっきりわかります。このように 何かの折に、すぐに親身になって走って下さる友人知人など 豊かな人脈にも恵まれ 普通では難しいとされるようなことでも その行動力と周りの方々のご支援でやり遂げられたのではないかと思います。

後継者のお話では その地域に念仏の花が開いていくことが叔父の願いであったとのこと、毎年、大晦日には、境内の鐘楼に除夜の鐘をつきに集まって下さる街の人々、雨にもかかわらずお焼香に長い列を並んでお待ち下さった人々、そして最後のお別れで棺にお花をいれてくださろうと、本堂に次々に上がってこられた街の人々、しっかりと、この街には念仏の花が咲いていると確信致しました。

後継者の方も、それは立派にこの大きな葬儀をお勤めされましたし、今後も意志を引き継いで頑張って下さいます。そしてご家族の一致団結した温かい様子を見てとても感動しました。どうぞ安らかにお休み下さい。仏門に入られたのが35歳、旅立たれたのが満80歳(数え82歳)釈尊と同じですね

叔父の亡くなる1週間ほど前に 姉に当たる叔母が旅立ちました。高熱で朦朧として言葉も発せない叔父でしたが 家族の方が皆、叔母のお通夜にでかけている間、叔父は一生懸命読経をしていたと看護婦さんが仰っていたそうです。

私の父母が海外駐在の折、私はしばらくこのお寺に住まわせてもらっていましたし、我が家(実家)とは 比較的近いと言うこともあって 色々な点で大変お世話になりました。このページは私的な追悼記にさせていただきました。

明日から引き続きバンクーバー便り更新致します。