[敦賀] 敦賀

到着後ランチ、マッスルは大きな牡蠣フライ他、私は海鮮丼
大阪方面から来る妹たちとの待ち合わせまでに 少し観光できればと 早めに到着。妹に おすすめスポットを聞いていたので その近くまで行き とりあえずランチ。マッスル君は 調理した牡蠣が 大好物。この大きな牡蠣フライ、シーザーサラダ、ご飯セットなど 堪能していました。フライを食べる シャオ、カリっとする音が まだ耳に残っています。

私の海鮮丼、沢山の新鮮魚介類! おいしかったのですが お味は想定内でした。ご飯が多かったので ちょっと食べきれませんでした。しかし、こんなに多くの種類、生け簀から取り上げて調理、最高の贅沢ですよね。その上お値段2300円とリーズナブル。甘いだろうなシコシコだろうなと 全て想像上で賞味した通りでした。

何と、このムゼウムで 妹夫妻とばったり出会い、え〜っ? 姉妹考えることは同じですね。[ムゼウム(ポ-ランド語で資料館という意味のようです)]杉原千畝さんの事は よく存じていましたが この敦賀との関係は 妹から聞くまで知りませんでした。マッスルも私も深い感銘を受け、全てのビデオをゆっくりみるため もう一度来ようねと話しています。後で続けます。

息子が 早く蟹の画像を載せてと言うのですが。。。それは夜ご飯。待て待て、もう少し。(笑)

現在人口6万7千人ほどの敦賀、1902年から40年ほどの間は ヨーロッパとの交通の拠点としての国際港だったそうです。この敦賀港は、日本赤十字社の救助によって ポーランドの孤児763人が上陸したり、杉浦千畝氏の「命のビザ」を手にしたユダヤ人難民約6000人が上陸した「人道の港」でもあったと知りました。その資料館(ムぜウム)に 敦賀駅に着き昼食後真っ先に来てみました。

1階で 敦賀ウラジオストックの直通航路、その後新橋(東京)と敦賀間の欧亜国際連絡列車運行により 敦賀はヨーロッパ各地への拠点となった壮大なスケールの資料など見ていると 2階から降りてきた妹夫妻にばったり出会いました。

1940年、ナチスから逃れるため 多くのユダヤ人がリトアニア日本領事館に 日本通過のビザを求めて押し寄せました。当時の日本外務省は ビザ発給許可を出しませんでしたが 杉原千畝領事代理は 悩んだあげく 外務省に背いてビザ発給を決断。時間の許す限り ビザを発給し続けたそうです。約6000人のユダヤ人がこの敦賀に上陸したようすなどの資料、エピソードなど 深い感銘をうけます。

杉原氏の命のビザ、そしてユダヤ人難民達を受け入れたこの敦賀の人々の温かさに 感動しました。

杉原千畝氏については 映画も観ましたし テレビでもかなり前のことですが 報道されていましたね。 また 多分千畝氏のご子息だったと思いますが 私達がアメリカ在住時に 命のビザについて、アメリカで講演をなさったことがありました。その時に 命のビザに関連して 当時物議を醸し出していた人の ちょっとしたエピソードをお話下さいましたので 印象に残っていました。20年近くして まさに、この地にいるご縁、不思議です!